新聞とコモンカルチャー

授業準備の関係で、ウィリアムズによるコモンカルチャー関連の記述を読んでいたのだが、夜分かった気になって、朝になって分からなくなる症状にここしばらく悩まされた。

ウィリアムズの論をものすごく乱暴にまとめるとこうなる。

文化は「価値と意味」を決定している。ただし、そうした「価値と意味が決定されるプロセス」を未完のものと考え、かつ、このプロセスに関与しているのが「特定の階級や集団」ではない、と考えるとき、コモン・カルチャーという考え方に徐々に近接してゆく。

例えば、大学を四年間で卒業してすぐ就職することに、ある「意味」があって「価値」がある、と考えられているから、企業は「新卒社員」を採用したがるし、学生も必死になる。

しかし、そうした行動の価値と意味が、変化しうるものであるとしたら? また、そうした変化のプロセスに関与しているのが、特定の人間集団ではないとしたら?

そこでの私たちは、コモン・カルチャーというアイデアに徐々に近づいていることになる。

ところが、朝新聞を読むとき。

そこにあるのは、私たちの暮らしにまつわる事柄の意味と価値が、あたかもあらかじめ決定されていて、そこに関与できない、と感じる記事ばかりである。別にこれは、誇張して言っているわけではないと思う。経済について、エネルギー政策について、地方分権について、私たちの未来について、その意味と価値を決めているのは、特定の人間集団ではない、と感じさせる記事は、一体どれぐらいあるというのか? 

こうなると、コモン・カルチャーにリアリティを感じなくなるのは当然のことだ。

朝に新聞読むのやめて、散歩すればいいのかな。ネットで情報チェックして、帰宅してから新聞読む手もあるし。