新聞は朝読まない

 「コモンカルチャーがわからなくなる症状」に対処するべく、朝新聞を読むのをやめた。

 思い返してみると、震災直後は、かなり熱心に読んでいた記憶がある。どこかの地点で、新聞を読むと、朝からとてもしんどい気分になるようになった。

 はてしてどの地点か?

http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20110908/222523/

 ヒントはこのコラムにありそうな気がする。

 まず、恐ろしいことに忘れがちなことだが、ここは有権者数が一億を越える国(http://www.soumu.go.jp/senkyo/senkyo_s/data/sangiin19/sangiin19_2_3.html)であることを思い出しておこう。
 とすると、全国紙と言われるメディアは、一億を越える人びとを念頭に置きつつ、一つの意見を正論として提示していることになる。

 端的に言ってみる。

 そりゃ、どう考えても無理のある話じゃないのかと。

 もしかしたら、人口数百万規模の県単位とかなら、どうにかなるのかもしれない。この県のこの地域の、こういう暮らし向きの人びとは、こういう意見、あの地域の人びとはこういう意見と、なんとかかんとか想像がつくのかもしれない。

 じゃぁ首都圏は? 無理だ。三千万を越える数の人びとが、どういった暮らしをしていて、どういった意見をもっているか、想像できない。10年ぐらい住んでいたが、アパートの隣の人がどんな人かすらよく知らなかった。近所のスーパーに買い物にいくときですら、全く知らない人びとばかりで、目を合わせることすらなかった。

 人口一億の国では? 本当に無理だ。震災と原発事故で明らかになったことのひとつは、人口一億の国に住んでいる人びとを「私たち」と呼ぶことが、どれだけむずかしいことか、ということではないだろうか? 私たちは私たちのことを驚くほどに知らなかったし知らないままである。

 この問題の解決のひとつの鍵はデヴォリューションにあるのだが、それは、とてもとても長い道のりになるだろう。ウェールズの人口が約300万人。この人口で、ひとつのネイションが形成されており(ないしは、形成されつつあり)、かつ、この人口の内部で、様々な意見の衝突がある。そして、ここに至るまでの道のりが、決して平坦ものではなかった。

 ともあれ確実に言えるのは、これから地域紙の存在感が増すだろう、ということだ。申し訳ないが、毎朝、全国紙を読むたびに、そこで想定されている「一億人」から自分がもれていることがわかってなお、全国紙を読み続ける人びとが、そんなにたくさんいるとは、私にはとうてい思えない。